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Last updated: 2002.09.01
京都議定書の数値目標は 2008 年 〜 2012 年の「第一約束期間」に設定されている. これに続く 2013 年 〜 2018 年の「第二約束期間」の数値目標交渉が 2005 年から 2007 年までの間に 行われることになっているが,京都議定書の構造を保ったままでは,この交渉は決裂する.2013 年以降は, 単なる数値目標の再設定に留まらず,「法的拘束力のある数値目標」が中心の京都議定書を換骨奪胎する必要がある.
京都議定書の欠陥がよく指摘される.これは,数値目標を持っているのは日本,欧州,ロシアなどだけであり, これは世界の CO2 排出の 1/4 しかカバーしておらず, 米国,中国,インドなどがここから外れていること,また,目標の設定が 2010 年までと短期的なことである.
これが欠陥なのは事実である.温暖化問題はもっと長期的・世界的な取組みを必要としている. 京都議定書の数値目標を達成することで,温暖化防止をできる程度というのは知れているし, 地球の温度上昇幅は,数値目標達成に相当する排出削減だけでは,殆ど抑えられない.
しかし,この欠陥はうまくカバーできることを,先月号で述べた.いくつかの国が率先して温暖化防止に取り組み, 温暖化防止政策が経済などの他の政策目標を阻害することなく実施できることを実証してやればよい. そうすれば,他の国においても同様な政策を実施するようになるので,温暖化防止の輪は徐々に世界に広がっていく. 過去の公害問題はそのように解決してきた.まずどこかの国で政策を実証せねばならない. 実証をする国は,少々はソンをするかもしれないが,それほど深刻にならない範囲でやればよい. 公害問題に対処するコストは決して小さなものではなかったが,それでも,それによって経済が目に見えて疲弊する ということは無かった.
現在,世界の国々では,どこでも環境対策を実施しているが,このほとんどは,国際条約で外から強制されているのではなく, むしろ,「環境に良いことならば,出来ることはやろう」という考え方で実施されている. 温暖化防止が「出来ること」であることさえ示せば,世界各国は取り組むようになる.
ところで,京都議定書にはもっと重大な欠陥がある.それは,数値目標にウェイトを置き過ぎていることだ. 具体的には,京都議定書の数値目標には法的拘束力があり,目標未達成の場合には罰則が用意されることになりそうだ.
なぜこれが欠陥か説明しよう.
温暖化問題は生活全般に関連する「生活型環境問題」である.このため,CO2 の 排出を減らそうと思っても,なかなかうまく対処できない.このため,排出量をコントロールする能力というのは 政府にはあまりない.政府は政策措置を打つことはできるが,数値目標の達成を確実にする能力はない. いわば数値目標は「できない約束」である.
「できない約束」を中心にすえると,逆効果が生じる.数値目標を墨守するとなれば, 鉄鋼などのエネルギー集約産業を海外に追い出すといった結果になりかねない.海外に追い出しても 海外での排出が増えるだけだから,このような対策は「地球規模でみて意味のない温暖化対策」である. これでは,政策の実証どころか,「温暖化防止政策を実施するのはバカである」という悪しき先例をつくってしまう. これでは,どこの国も温暖化対策に乗り出そうとはしない.
このようなことを恐れて,どこの国も今後,より厳しい数値目標を言うことはなくなるだろう. それどころか,まだ数値目標を持っていない国も,数値目標を言うようにならないだろう.
国々は「後退」していく.
国々はなぜ後退していくのか.その仕組みを考えてみよう.それは,決して悪意の現れではない. 責任ある民主国家の政府であれば,「温室効果ガス削減に関する法的拘束力のある数値目標」については, 保守的な約束をするしかありえず,それが正しいのである.悪いのはかかる議定書のほうであって,国々が悪いのではない.
詳しく説明しよう.
温暖化問題は生活型環境問題であり,長期の問題であり,経済およびエネルギー利用と密接不可分の問題である. 政府には数値目標を確実に達成する能力はない.このような状況下では, 野心的に数値目標にたやすく合意などできない ― 否,してはいけないというのがまともな民主主義国家の政府の発想であろう.
数値目標を 5% 厳しく言ってしまえば,言ったそのときは格好がいい.しかし,経済成長が 0.5% だけ予測より高ければ, それは 10 年間で累積で 5% 増となり,CO2 も 5% 増になる. これを抑えるためには,さまざまな政策措置がいる.CO2 排出削減には 不確実性がつきまとう.言い方を変えれば,確実に減らすということは難しい.
もちろん,排出削減がうまくいけば全く問題はなく,よい環境,スリムで強い製造業, そして気高い行為をしたという満足感が待っている.しかし,下手をすれば,10 兆円増税かもしれない.
このような,結果が全く読めないことについて法的拘束力のある数値目標を約束しようとすれば, 交渉の責任者は,保守的な見積もりに基づかざるを得ない.あらゆる不確実性の,最悪の場合を想定して, それでも安全な範囲でしか約束しないというのがまっとうな発想になる.
数値目標が保守的なことは,よく,その国が真剣に考えていないことの現われであるとして非難されるが, 実はそうではない.むしろ逆である.事前に真剣に検討すればするほど,できない約束はしてはいけないことに気づき, 数値目標設定については慎重にならざるを得ない.カッコ良さと真剣さは反比例する.
対照的に,野心的な数値目標設定というのは,しばしば,ただのスタンドプレーにすぎない. 欧州酸性雨条約の NOX 排出削減数値目標の交渉においては, はじめは「30% クラブ」といって 30% 排出削減という目標をたてようという国々があったが, 検討段階でこれは難しいということがわかり,結局(法的拘束力のある)数値目標は 0% となり, 30% は議定書の目標ではなく,一部の国々の(法的拘束力の無い)政治宣言という形をとった. これらの国々の排出削減量は結局 5% 程度にとどまったから,0% という数値の方が妥当であったことがわかる.
カッコ良さと真剣さの関係は,日本国内の数値目標の設定についても同様である.日本の温暖化対策新大綱の中で, まともに達成できそうな要素といえば,経団連自主行動計画ぐらいである.経団連自主行動計画の数値目標設定が 保守的にすぎるという批判もあるが,これは妥当とはいえまい.経団連は,真剣に検討した結果, なんとか横ばいなら維持できるという結論を早々に出していたのである.そして,この計画は 過去 3 年順調な経過をたどってきた.
自主行動計画以外の部分は,目標設定こそ一見立派である.「新大綱」では,1990 年以来排出が伸び続け, 現在では約 20% 増の運輸・民生部門について,運輸は現状から横ばい,民生は 1990 年水準にほぼ戻すとしている. しかし,これは政策措置の裏打ちが脆弱で,真剣な検討とは呼べない.目標設定の見かけ上の野心性は, 真剣さと反比例する.
さてそれでは,かように問題の大きい数値目標について,京都会議ではなぜ合意したのだろうか. 国々は,なぜ初めから「後退」せず,とりあえずは前進したのだろうか.
京都議定書の数値目標の設定が,先進国全体で 5% 削減,日・米・欧州は 6, 7, 8% 減というように, 一見野心的にできたのは,その内容を「よく分かっていなかった」か,あるいは「よく分かっていながら, あえてそれを政治的に無視した」か,それとも,それが「実は保守的な数字であった」かのどれかであった.
日本は,よく分かっていなかった.経団連自主行動計画以外の数字の積み上げは誤りに満ちていた. 議定書の(法的拘束力のある)数値目標というものが持つ法的な重みを理解せず, それまでの国内の長期エネルギー計画の数値目標設定とたいして変わらないニュアンスのものとして理解していた.
国内計画の場合,目標値の設定は,必ずしも達成することが目的ではなく,それに向けて 法制度や予算措置を整えていくという「調整機能」に主眼があるから,議定書の数値目標とは法的にも 政策的にも全く意味が違う.
このような「事実誤認」にもとづく「野心的な数値目標」を設定したことは全くやりきれない. しかし,さすがに同様な愚行は,二度と行なわないだろう(そう願いたい).
米国は,よく分かっていたが,あえて政治的に無視した.産業界は,7% 減を議定書の数値目標とすることが 全く無理難題であるということを言い続けた.しかし,クリントン・ゴア政権は,政治的パフォーマンスとして 京都議定書締結が必要であった.それが米国議会を通らず批准しないことは熟知していたが, 彼らはそれでも環境に優しいという得点を十分に挙げることができた.
欧州は,実は保守的な数字を,野心的な数値に見せかけることに成功した. 東欧経済が 1989 年以降急速に崩壊し,シベリアからの天然ガス輸入が本格化しつつある欧州において, 1990 年を基準年とした排出削減をうたう数値目標はそれほど野心的なものではなかった. すくなくとも,日本と米国が同じ水準のパーセンテージに合意するのであれば,欧州にとっては その数値目標はずっとラクに達成できるものだった.
京都議定書の野心的な数値目標に合意できたもう一つの理由は,京都メカニズム,森林吸収, 6 ガスバスケット方式などの 「柔軟性措置」が導入されたことである.これは 2 つの効果があった. 第 1 は,野心的な数値目標をいうことが ― 見かけ上だが ― 簡単になることだ. 化石燃料起源の CO2 を減らせといえば殆ど誰も野心的な数値目標設定はムリになるが, 森林吸収でも,他のガスでもいいし,他国から排出権を買ってきてもよいということになれば,より野心的な数値 (0% でなく 5%,5% でなく 6%…)を言うことは簡単になる.このなかには,森林排出は数えないが 森林吸収だけは数えてよいといった,眉唾な方法も含まれていた.第 2 の効果は,これらの措置が不確実な要素を作り出し, 交渉をしている人々にも何を交渉しているのか分からなくしたことである.あたらしい「柔軟性措置」が出てくるたびに, 一応はそれぞれによって達成できる数値が議論されはしたが,よい情報に基づいているとは言い難かった. うやむやな情報に基づき,達成の困難や不確実さも分からず合意されたのが京都議定書の数値目標だった.
それでは,このやり方で同じことがもう一度できるのだろうか.より正確に言えば, 京都議定書第二約束期間の数値目標の交渉は,2005 年から開始して,2007 年には終了することが予定されているが, 現実を知り後退を始める国々は,京都議定書の他の部分に大幅な変更を加えることなく合意ができるのだろうか?
数値目標が緩ければ合意できる,という考えかたもあろう.しかし,なかなかそうはいかない.
数値目標は緩くできないのである.なぜならば,数値目標は,世界の政治家(環境大臣)が合意するものである以上, 政治的パフォーマンスとして十分に意味を持つカッコ良さが必要だからである.
京都議定書では先進国全体で「5% 減」をうたった.これは気候変動枠組み条約で「0% 減」をうたったから, そこよりは前進したいという発想に基づくものだった.次の議定書では,この 5% よりももっと前進した数字をつくろうと いうことになる.
このためには,基準年の設定が重要になる.1990 年という数字は欧州が自分にとってベストとなものとして選択し, それが京都議定書で選択された.
次の議定書では,ひとつの年度を基準にすることはほぼ不可能であり,それぞれの国が, 独立に基準年を選ぶことになるだろう.例えば,日本において,もしも 2005 年ごろをピークに排出が減るなら, 2005 年ごろを基準年に選ぶことが,見かけ上の削減量を最も大きくすることになる.
しかし,交渉のタイミングから言って,どの国も本格的な温暖化対策の効果はまだ現れていないだろう. 2007 年には,せいぜい 2005 年の統計が出揃っているだけである.そこまでに目に見えて温暖化防止政策の効果が 出ている国など無いだろう.どこの国の排出も右肩あがりか,あるいは,せいぜい他の要因で排出が 減っているかどちらかであって,自信を持って 2013 年以降に排出削減をできるという国などなかろう.
このため,どの国も基準年をできるだけ後年にしようとするだろう.それでも,5% 以上の削減を言うことは難しい. さらに,誰も排出削減に自信をもっていない段階で交渉しなければならないから,野心的な削減目標を言うことは難しい.
柔軟性措置はこの状況を救うか.楽観的な見方をすれば,京都メカニズムなどの柔軟性措置の効能が明らかになっていて, それを読み込んで野心的な数値目標設定が可能になるという見方もできよう.
しかし,またもやここでタイミングの問題がでてくる.第一約束期間以前であれば,京都メカニズムは多分に 理論的なもののままであって,それがうまくいくことを実証する段階ではない. 排出権の先物取引市場などがうまく動いていれば話は別だが,そこまで急速に制度整備が進むとも思えない.
第二約束期間においては,京都会議のときのように,先進国全体として「保守的な数値目標設定を野心的なものに見せかける」 ことは,どうもうまくいきそうにない.
柔軟性措置は悪く言えば抜け穴であり,自国での化石燃料による CO2 削減だけでは みかけの数値目標達成が難しいから導入されたものであった.しかし,この多くは一度きりしか使えそうにない. 一度批判が集まった措置は,今後は消えていくだろう.京都議定書で採用されているグロス・ネット方式というのは, 排出は勘定しないが吸収は勘定するという側面があり,あまり褒められたものではない. HFC や PFC などの代替フロンにしても,一度削減してしまえば,もう減るものではないので,一度きりしか使えない. 第二約束期間の数値目標設定は,これで 数% から,国によっては数十% きびしくなる.
そして最大の難関は,「分からないうちに合意する」ということができなくなったことである. 京都議定書以後,温暖化対策を打つ必要性が認識されるようになり,これは京都議定書の大いなる成果なのだが, 他方で,温暖化対策の難しさに関する認識,そう簡単ではないという戒めも世界各国で広がった. 一度中身が分かれば,今度はみな慎重になる.
もしも第二約束期間交渉が 2007 年までに成立するとすれば,あらゆる国が安全サイドに立って交渉するために, 保守的なポジションと野心的な目標設定との隙間を埋める新たな「柔軟性」が必要になるが, なかなかよい方法は見つかりそうにない.
これは,考え方としては,できるだけ包括的に温室効果ガスを勘定する フル・グリーンハウスガス・アカウンティング (FGA) の考え方を導入するという形式をとるであろうが,交渉の俎上においては,これは京都議定書の吸収源同様, 新たな,しかも温暖化防止の本筋とは関係の無い問題点を作り出すだろう. 京都会議以降,各国が吸収源を巡って投資した交渉資源は膨大であったが,決して生産的ではなかった.
いずれにせよ,「京都議定書第二約束期間の交渉をする」ということは,国々の数値目標を, 京都議定書と同じ法的拘束力の強さで約束するということである.これは,排出削減政策が実施できるという実証が 世界のどこかであってからでなければ無理である.2007 年までという時間は短すぎる.2012 年でもおそらく短すぎる. このようなハードな議定書を結ぶのはしばらく棚上げにして,2013 年からの 5 年間は, もっと別な可能性を探ったほうがよい.
京都議定書のような法的拘束力のある数値目標は,その法的なニュアンスの強さゆえ, 実態としては,野心的な「目標」というよりは,むしろ,各国で温暖化対策が実施されて 排出量が明白な減少傾向に転じた後で,それを事後的に「目標」と名乗る形になっていくと考えられる. これは欧州の酸性雨条約でもしばしば観察された現象である.
だとすると,そのような「事後的な」数値目標とは別に,世界の温暖化防止政策を引っ張る 別の制度的道具立てが必要であろう.これは京都議定書の法的な構造を根底から変えることことに他ならない. これについての具体的な話は紙数が尽きたので,来月に譲ることにしよう.
[日工フォーラム社 「月刊エネルギー」 2002 年 9 月号(ドラフト)より]