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Last updated: 2002.09.01  

「国民 vs 国民」の図式を制度化する方法
   ― 炭素税の効能とあり方を探る

要約

京都議定書を批准することは巨大な国際的義務を負うことなので,締結を前提とするならば, 何らかの負担増はどのみち避けられない.しかしこれまでのところ, 国民は負担について知らされておらず,批准に慎重なのは経済界のみということになっている. このため,経済界が無用に悪者になっている観がある.本来,国民生活のあり方に直結する 温暖化問題の図式は,「経済界 vs 国民」ではなく,「国民 vs 国民」であるが,これが正しく認識されていない.

この誤認を正し,国民が負担と正面から向き合うようにするためには,タブー視することなく, 炭素税を議論したほうがよい.無闇な税は論外だが,やりようによっては炭素税制度は重要な役割を果たす.

「批准するが負担はない」という不思議

政府は,次期通常国会で京都議定書を批准しようとしている.日本が批准すれば, 京都議定書は発効する見込みが高い.すると,日本は「2010 年までに 1990 年比でマイナス 6% に 温室効果ガス排出を抑える」という巨大な国際法上の義務を負うことになる. 政府方針では,とりあえず現行政策を継続して,京都議定書の数値目標達成のために必要であれば, 2008 年以降に追加的施策を講じるとしている.ただし,追加施策とは何で,誰が, どこまで負担するのかということは明らかになっていない.

大日本帝国憲法が発布されたとき,「お上が立派なものをつくった,これで日本も一流の国になったそうだ」と言って, 国民は中身を知らずに喜んだという.京都議定書批准はこれに似ている.

実際には,巨大な義務が課されると,国民負担の増加=実質的な増税が待ち受けている. これを全く理解せずに,「京都議定書という立派なものができたので,批准しよう」といって喜んでいる. 国民は,苦労をするのは自分たちではないと思っているが,これはとんでもない間違いである

危険なチキン・ゲーム

どうして誰も負担について明らかにしないのだろうか.

これは危険なチキン・ゲームの結果である.

まず,政治家としては「環境にやさしい」ことは票になるが,「負担増」は票にならない. ところで,京都議定書はこの点じつにうまく仕組まれており,負担が発生するのは 10 年後になっている. 10 年後というのは政治的には無限の彼方でり,政治家が気にするのはせいぜい次の選挙までである. すると,遠い将来のことはどうでもよいので,批准に賛成することで「環境にやさしい」というイメージになろうとする.

批准推進派はどうだろうか.こちらは,負担があることがはっきりすると,議論がもめて批准ができなくなることを 恐れている.そこで,負担があるということを隠すことになる.

批准反対派はどうだろうか.こちらは,「具体的な規制について議論をしだすと, 早々にその規制が入ってしまいかねない」という危惧から,具体的な議論を先送りすることに同意してしまっている.

このように,三者三様の理由で,みなが負担を具体的に明らかにすることを避けている. しかし,このまま批准してしまえばよいというものではない.批准が国民に何らかの義務を課するものである以上, その義務がどのようなものかを周知して同意を得るのが正しい民主主義のあり方だ. 先月号で述べたように,具体的な裏付けなく批准をすれば,日本は世界にカラ約束をすることになるし, 今後の国際交渉においても力が弱くなる.

難しいことの責任をとる難しさ

これまでのところ,温暖化対策には経済界が反対,という論調がよく見られるが, これは経済界にとって不幸なことである.これは間違った図式であり,無用に経済界のイメージを下げている.

環境 NGO は経済界,とくに経団連がお嫌いなようであり,経団連の温暖化防止自主行動計画を批判している.

経団連の自主行動計画がどの程度出来のよいものかという議論は一筋縄ではないのでここではしないが, 1 つはっきり言えることがある.それは,同計画ではレビュープロセスが準備されていて, 毎年見なおしていることである(PDCA 的手法という.Plan, Do, Check and Act). 政府計画は作りっぱなしの場合が多かったから,経団連の方がこの点においてはかなり進んでいる.

しかしレビュープロセスがあるからといって,確実に目標が達成できるか,というと, それはそう簡単ではない.経団連は決して一枚岩ではなく,多くの企業の寄せ集めに過ぎない. このため,野心的な目標を経団連として設定し,それに向けて企業間の調整を図り, 実施を担保していくといったことはなかなか難しい.

ただし,経団連を責めるのは当たらない.「無数にある企業間の調整を行い,それによって CO2 排出総量を安定化させる」というような芸当は, 政府にも出来ない.過去の政府計画での数値目標は,大半が達成されなかった. そもそも,政府にこれをできないことが,経団連が自主行動計画を始めた理由の 1 つなのだ.

すこし話が飛ぶが,かつて公害裁判においては,「挙証責任あるところ勝訴なし」と言われた. この言葉の意味は,「公害裁判においては,汚染から被害への因果関係の有無の挙証が 科学的に非常に難しいために,証拠を挙げる責任(挙証責任)を持たされた側は裁判になかなか勝てない」, ということである.本質的に難しいことの責任を負うと,大変な苦労をすることになる.

無数の企業を対象として CO2 排出を安定化することも難題であるから, その責任を負うことは容易ではない.それでも,欧州のようにそもそもの目標設定が緩ければまだどうにかなる. だが,経団連が立てている 2010 年の CO2 排出量安定化は緩い目標ではないし, 京都議定書のマイナス 6% という目標となると,もっと野心的である.難しいことの責任をとることは難しい.

図式を「経済界 vs 国民」から「国民 vs 国民」へ正そう

経団連と政府は互いの計画の不備についてやりあってきた.だが,この両者で難題を押しつけあっても, どちらかが悪役になるだけのことで,あまり問題の解決には結びつかない.とくに問題なのは, 国民が真剣に関心を持たないことだろう.

環境 NGO は「われわれは国民だ」といって,「経済界」を攻撃する.しかし,温暖化問題の場合 「経済界 vs 国民」なる図式は本当に正しいのだろうか.

水俣病などの犯罪的な公害問題においては,たしかに「独占資本主義 vs 一般国民」, 「ブルジョア対プロレタリアート」のような図式が成立したかもしれない. 貧しい漁民がまっさきに被災し,有害と知りつつ経済利益を優先する企業と自治体の前に絶望的な抵抗を行った.

しかし,温暖化防止をするとなれば,これはだいぶ話しが違う.温暖化を起こしているのは, 個人個人の生活全般である.車に乗ったり,電気をつけたり,産地直送(=トラック輸送がほとんど)の魚を 食べたりするたびに CO2 が発生している.図式は今や「国民 vs 国民」である.

温暖化問題を「経済界 vs 国民」と図式化することは間違いだし,問題の本質から目をそらしてしまう という意味で有害である.間違った図式から発する制度は,どれも的外れになるだろう.

さて「国民 vs 国民」という図式を,知識として普及させるのみならず,実態として社会に埋め込むためには, 制度にも反映させる必要がある.国民に責任があることをはっきりさせるためには, 国民が支払う形で炭素税を導入して目覚めさせたほうがよい.企業の責任といって片づけているうちは, 温暖化問題は解決へ向かわない.

環境 NGO は政府や企業を攻撃して悦に入っているが,これは正直な態度だろうか. 本当に真剣なら,「みなさん炭素税を毎月 1000 円払いましょう」と国民に訴えて説得してほしい. チキン・ゲームの中で誰もこの話しを持ち出せないから,企業も政府も政治家も, なかなか核心をついた議論ができないのだ.

どのような炭素税ならよいのか

筆者は批准をするなら早晩炭素税が必要になると思っているし,炭素税を了解した上で 国民の選択として批准するならば,それは結構なことだと思っている.理由はいくつかある.

第 1 は,前述のように,生活型環境問題であることから,国民自身が負担をしなければ問題は解決しないことである. よく「国民一人一人の心がけで温暖化防止!…」という大変きれいな常套句があるが, よくよく聞いていると「…でもお金は誰かはらってね」というムシのいい話しが多い. 心がけを示す最も重大な方法の1つはお金を払うことである.企業が悪いとか政府が悪いとか言って対策を求めても, インフレや失業といった形で,結局は目に見えにくい形で国民が負担することになる. それよりは,分かり易いように,直接負担をした方がよい.そのほうが経済への弊害も少なさそうだ.

第 2 は,炭素税以外だとどの制度でも「大きいところ」にしか効かないというムラができるからである. 直接規制も排出権取引も実態としては大口排出者にしか効かないだろう.小口排出者は行政が見きれないためだ. 自主的取り組みも,その実施担保が公衆圧力による以上,小口排出者への実効性は薄いだろう.

公害問題なら大規模なところだけ抑えていればよかったが,温暖化に関しては,むしろそういった 大規模なところでドンドン技術開発をしてもらわねば困る.ところが,大規模なところをギュウギュウと規制すると, 小さな石油ボイラやらガスボイラやらがやたらと増えて逆効果になるだろう.これは温暖化に逆行するだけでなく, 都市の大気質を悪くしかねない.

もちろん炭素税なら無条件でムラがなくなるわけではない.法律を作り政令・省令で運用則をつくる過程 (=立法過程という)でいろいろな政治力によるネジレは入るだろう.

過去の石油諸税の経験を見ると,揮発油(=ガソリン)税は,「租税特別措置法」という不可思議な法律によって, もともとの法律の規定に関らず,税率をドンドン引き上げられてしまっている.

すると,炭素税についても危惧が生じる.税収が既得権益化したり,特定部門をねらい打ちにして, 安易な税率引上げがおきかねない.また,一部の利益保護のために減免措置が実施される可能性もある. では,どうすればもっともうまくいくか.

筆者の私案は,以下のような「普遍的炭素税制度」である.ここでいう普遍的炭素税とは, 原則として炭素 1 トンあたり何円という均一の炭素税率を施行し,経過的に税還付を行うが, 長期的にはそれら還付措置の廃止をめざす制度である.ここでは詳細に紹介することはできないが, いくつかのポイントを述べる.

第 1.原油関税同様に,水際で課税する.これによって徴税コストは安く,徴税漏れも少なくなる.

第 2.税率は基本的には均一とし,対象を特定してそれを上回る税率にすることは法律で禁止する. ここで 2010 年ごろの税率は炭素 1 トンあたり 2000 円程度と想定しているが, これで不十分な場合は,均一税率の引き上げという形で増税する.均一税率引き上げは国民全体の負担増となるから, そう安易にはできないだろう.議定書遵守が難しい場合に,どこまで負担増に耐えるかは, このときに国民が判断することになる.

第 3.国際競争にさらされるエネルギー集約工程を対象として,基準年(例えば 1990 年)の排出量に 相当する分の炭素税を還付する.このような「グランドファザリングベースの還付」によれば, 炭素税減免による排出削減インセンティブの消失という問題はなくなる.

第 4.不適切な炭素税還付を行いにくくする工夫をする.具体的には,「炭素税実効税率表」の整備による, 情報公開を利用した炭素税還付の管理を行う.同表は炭素税還付措置について,その対象,還付後の実効税率, 税額および理由を記した表であり,公開される.長期的にはその表が真っ白になることを目指す. この表によって,還付措置の透明性を高め,妥当性を常に見直す契機が生み出される. これは WTO の約束表にヒントを得たものである.

第 5.税収を 2 つの目的に用いる.すなわち,民間が外国から購入した排出権を国が買い上げるための 原資にすること,および,国内温暖化対策技術の推進のために用いることである. 排出削減プロジェクトの相場が国際的に 10000 円/tC 程度とすると,2000 円/tC の炭素税による 税収のうち半分は還付するとしても,なお日本の排出量の 10% 相当分をこの 2 つの使途によって削減できる. オランダ政府は基準年排出の 13% 分を民間経由で外国から買い上げる大規模な計画を開始しており参考になる. 環境技術促進は,うまくやれば日本の製造業の国際競争力を高めて国益にも適う. 補助金というと最近評判が悪いが,ムチに限界がある以上,アメを検討する必要があるし, 何とかうまく制度設計する方法はあるだろう.京都議定書の「共同実施」は「国際的なアメ」であり, これと同様な制度を,国内の排出削減投資を対象に創ることが有効と考えて検討中である.

「税」というといろいろ反発があるが,どこかで誰かがお金を払わないと温暖化防止はやりようがない. 国民が覚悟を決めて,「よし環境のために金を払おう」というのなら,民主主義として最高の形であり, そうあって欲しい.目標を見失っている日本の若者にとって,「21世紀はよい環境を作ろう, 子供たちには美しい環境を残そう」というのは,具体的な政治的目標として優れている. そのための負担に国民自らが賛成するなら,これほど良いことはない.

[日工フォーラム社 「月刊エネルギー」 2002年 3 月号(ドラフト)より]



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