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Last updated: 2003.01.01  

まともな議定書の作り方 ― 京都議定書の失敗を繰り返すな


要約

米国,オーストラリア,カナダが離脱し,京都議定書は 日本・欧州・ロシアしか参加しない失敗作になった 【松尾註: 結局,カナダは 100 番目の国として,京都議定書に批准した】. この根本原因は,1990 年を基準年として数値目標を設定する 欧州にのみ都合がよい骨組みにある. なぜそうなったのか.悪意でも陰謀でもなく,欧州内の狭い範囲で議論をした結果である. これから同じ過ちを繰り返さないためには,どうすればよいか. 政府交渉に先だち,「複線交渉」なる国際共同作業によって,議定書の骨組みを 幅広く研究する必要がある.


本文

京都議定書は惨憺たるものになってしまった.厳しい数値目標を被っているのは,事実上,日本だけである. アメリカは離脱した.欧州の数値目標は緩い.ロシアの排出枠は余っている.

京都議定書と同じ過ちを繰り返さないために,これからの温暖化防止の国際制度のあり方はどのようにしたらよいか, 先月号迄で 詳しく議論をした.

今月は,どのような制度であれ,より適切な制度に落ち着くための望ましい「手段」のあり方に焦点を絞る. 先月号までは,「どのような」制度にすべきか を 論じたわけであるが, 今月は,「どのように」すれば よりよい制度が実現できるか を考える.

なぜ 1990 年が基準年になったのか

まずは,京都議定書の悪しき結果が,どのようにしてもたらされたかを考えよう. たとえば,上述の,「日本だけに厳しい」という片務性は,どのようにして生まれてきたか.

片務性の起源は,1990 年を基準にして 排出削減量のパーセンテージを約束するという, 京都議定書の枠組み そのものにある.欧州では,1989 年から東欧の経済崩壊があり, また 天然ガスへの転換があるために,偶然 1990 年ごろが 排出量のピークになった. このため,これを基準年にすると,非常に都合よく,数値目標を「見かけ上野心的に」設定できた.

それでは 一体,どのようにして,この我田引水的な枠組みが実現されたのか.

もともと,基準となる年次を決めて そこからの排出削減量を論じるというやり方は, 多くの環境条約で行われてきた.特に 欧州においては,酸性雨条約の下,多くの議定書があり, それらの議定書では すべてこのような「目標年と数値目標方式」 (Target and Time Table という) で目標設定してきた.

このため,京都会議準備会合などの場で 議定書に関する議論が始まった時に,この 基準年と数値目標が 真っ先に俎上になったのは,自然な成り行きである.そして,欧州内部で議論をしている限りにおいては, 基準年の選択として,1990 年に落ち着く以外には ありえなかった. なぜならば,彼らの内部調整においては,これが 数値目標の見かけ上の野心性が表れる 唯一の選択であったからだ.

そして,京都会議においても,欧州は,1990 年を基準とするという点については,頑として譲らなかった. これが欧州にとって 死活的に重要な点であることを 熟知していたからである.

欧州の狭い議論が破綻した

かかるプロセスの結果として出来た,欧州に都合のよい枠組みについて, これを「欧州の陰謀である」といった言い方をする人がいる.しかし,これは実のところ,全く陰謀などではない. 単に 彼らが自分たちの中だけで議論したときに,そこに議論が落ち着かざるを得なかった, という実態の表れにすぎない.

問題なのは,このようにして欧州の中だけでした議論は,世界的な普遍性を持ち得ない ということである. 結局 この 1990 年という基準年設定が 仇となって,京都議定書は破綻した. 米国は,京都会議の時点においては,クリントン政権であったことから,見かけ上 野心的な数値目標に参加することに 意欲的であった.このタイミングで 京都会議があったために,米国も数値目標を 野心的に設定したわけであるが, これは そもそも無理難題であった.このことが,後に 米国が京都議定書から 離脱する理由になったし, これに引き続いて カナダなどの国々が結局は離脱してしまい,欧州以外では,日本が残るのみとなった.

「欧州の陰謀」が 仮にあったなら,それは ずいぶんお粗末な結果を 迎えてしまったといえる. 実際のところは,陰謀などは不可能である.京都議定書のような 複雑な国際交渉において, 一部の人が全体を見回し,陰謀を巡らし,それを実現するなどということは できない. それでも陰謀説を唱える人がいれば,その陰謀というのは どこで生まれて誰が実施しているのか,と聞いてみればよい. 答えられる人は誰もいない.陰謀と言って片付けて,分析を放棄するのでは,コトは改善しない.

問題は,欧州内部の議論が,欧州の中だけで収束してしまい,それが欧州外部にとって 実施可能な枠組みにならなかった ことだ.「それではうまくいかない,それでは 世界的なシステムはうまく構築できない」ということを言って 説得してあげる人がいればよかった.

欧州は環境にやさしいか?

京都議定書交渉において,欧州連合は,環境にやさしいイメージをうまく形作った. しかし,これは「1990 年基準で排出削減量を決める」という,その土俵の設定の枠内でしか 通用しない.

そして,これは,たまたま自分たちにとって都合がよく,あまり努力しなくても達成できるものになっている.

土俵の設定次第では,日本は欧州に比べて全く遜色がない.例えば,一人当たり CO2 排出量ということであれば,日本は欧州と同水準である.また,あらゆるエネルギー利用効率において, 日本は欧州にひけをとらない.

日本も,欧州に負けずに,交渉の早い段階で,自分のほうが優れている点は見つけて, うまく世論をバックにしていく必要があったが,これができなかったことが 間違いのもとだった.

先ごろ開催されたヨハネスブルク環境・開発サミットにおいても,欧州連合は 再生可能エネルギーを 「世界の全エネルギーの 15% にする」,「先進国はシェアを 2% 増やす」といった 数値目標を掲げていた. 結局 これは 他の国々からの猛反対で立ち消えになったが,これとて,欧州は, たまたま自分たちにとって 実現可能なものを とりたてて言ったものだろう.

非常に環境に優しいようなイメージを与えるけれども,実際はそんなことはない. ただ,あまりにもプロパガンダがうまいので,欧州は環境に優しい というイメージが うまく刷り込まれてしまう.

アイデアの格闘技

何か欧州が提案をする場合には,それと同じだけの労力をもって互角の提案をし,説得をしないと,論破されてしまう.

米国は ときどきそれを試みる.京都議定書の排出権取引は 抜け穴であって制限すべし, という欧州の主張に対しては,欧州内で 無制限に排出量の取引を認めている 欧州バブルに同様な制限を課さないのはおかしい と主張した.これが奏功して, マラケシュ合意では 排出権取引への制限は付かなかった.罰則に関する交渉では, 欧州は 不遵守の場合の罰金などを提案したが,米国はこれに対抗して, 米国なみの法システムを作るべしといったことを主張した.これは 結局 最後には双方とも降りて, 不遵守の場合は 1.3 倍の排出量を 後で返すことに決着した.

このあたりまでは,まだまともな議論という気がするが,そればかりではない. 欧州は,無理難題も 沢山言ってくる.京都議定書の基準年も,再生可能エネルギー提案もそうである.

自分だけに都合のいいことを主張すると,相手には受け入れられない.これは当然だが, この当然のことは,遠く隔たった国の事柄となると,当事者が懇切丁寧に反論しない限り, なかなかよくわからないのである.

懇切丁寧に言ったとて,それでは足らず,相手から無理難題を なお言われる場合もある. そのような場合は,あべこべに無理難題を言って,交渉するというやり方もある. そうしてはじめて,無理難題であるということを 相手に分からせることができる.

例えば,欧州が 再生可能エネルギーの導入目標を主張しているが,これには どう対抗すればよいか. 国ごとに エネルギー賦存状況が違うので,一律の目標など無理だ,というのが正論である. しかし,これを言うだけでは日本のイメージは下がり,欧州が環境に優しい というイメージを上げることに 加担するだけになる.目標をオープンに提示されて,それを はねつけるだけでは,相手の思うつぼに はまる.

交渉の技術としては,もっと進んでよい.欧州式に,自分の都合よいことを挙げて 相手に押付けるような議論は いくらでも展開できる.例えば,議論の種として,「自動車の制限速度は 100 キロを上限とする」という 議定書を提案してみればよい.日本は 当然それを達成できる.そして,これはどう見ても環境に良い. そして,これは欧州にとっては 絶対に受け入れられない.ドイツ人は車で飛ばすのが好きで, 高速道路では時速無制限,おっきなベンツが 時速 200 キロで走っているからだ. 相手の議論が乱暴なら,このくらい乱暴な議論で対抗しないといけない.

自動車のスピード制限だけではない.このようなものは,いくらでも思いつく. 例えば 肉の消費量を 一人当たり一日平均 100 グラムに 制限する というような議定書はどうだろうか. 肉食が 地球環境に対して大きなプレッシャーを与えていることは間違いない. あるいは,国土に占める森林面積を 60% にするべしという議定書でもよい. 要は,かかる議定書ならば,日本はまったく努力しなくて達成できるし,環境によいことも明白である 一方で, 欧州には 絶対受け入れられない.ナンセンスなようでいて,実は,京都議定書も 再生可能エネルギー目標も, 似たようなことを 逆の立場で聞いているだけである.

このような 手前勝手な議定書を提案する日本人がいないというのは,個人的には好感が持てる. しかし,世界レベルでは,合意しようがないことがあるということを,欧州に分からせるためには, これくらいの喩えも有益だろう.

日本人の習性として,「欧州では」といわれると弱い.しかし,「欧州では」という議論で 引き合いに出てくる 欧州なるものは,それを引用している人の 幻想の中の欧州に過ぎない場合も多い. 京都議定書の数値目標も,再生可能エネルギー導入目標も,その内実は,ここで述べたようなことなのだ.

複線交渉のすすめ

以上,やや品が無いながら,手前勝手な議論には 反駁しなければならないことを 述べたつもりである. これは国益を守るためのみではない.むしろ,まともな制度作りに寄与することが大きい. 以下では,これを「複線交渉」を通じて行う必要を 述べる.

欧州内部の議論であれば,勝手に内部でやってくれればよいが,国際的な議定書をつくるときまで 同じでは 困る. 必要なことは,彼らが内部だけで議論せず,本当に 国際的に通用するような議論をするように, 交渉の早い段階で 関与してあげることである.これは日本の国益を守るということにも有益だが, のみならず,世界規模での合意を図るという,世界のための利益を図ることでもある. また 欧州の人々にとっても有益である.せっかくの議論が,空論になってしまうことを回避し, 本当に 世界にとって有益な合意にするためである.

欧州は 全体で陰謀をつくり出すというようなものではないが,まず 欧州内で徹底して議論して, 欧州のポジションを決めてから 外部と話しをするから,どうしても 彼らにとって 全体として都合のいい話しか 出てこない.また,大勢で決めたことであるから,事後的なポジションの変更が効きにくく,強硬な印象を受ける.

面白い話がある.COP 6 で会った欧州連合の友人に,どうして欧州連合の交渉ポジションは そうも頑ななのかと聞くと, 答えたことは,「欧州は すでに内部で調整を終えた.欧州は すでに決定した事項を交渉をしている. COP で交渉していることは,これから交渉すべきことではなく,われわれにとっては 交渉が終わったことなのだ」 と言っていた.言いえて妙である.

京都議定書が 米国,オーストラリア,カナダなどの離脱という事態を迎えた今,欧州以外の国々が参加できるために, 早い段階から それらの国々を交渉に参加させたほうがよい という考え方は,欧州の人々にとっても 説得力があることだろう.

ひとくちに「交渉」といってきたが,このような交渉は,国レベルの交渉だけを指すのではなく, もっと広い概念をイメージしている.もちろん正式な外交交渉は 国が窓口となって行うのだが, 実は 正式な外交交渉以上に,それに先立つ研究活動が 重要になる.なぜならば,正式な外交交渉においては, 交渉にあたるスタッフも限られているし,期間も短く,国益の調整が 主な作業になるからである. それに,交渉は 徒手空拳でするものではない.議定書の骨格となるような 主要なアイデアは, 正式の交渉プロセス そのものから出てくるものではなく,それに先立つ 研究活動 から出てくる.

欧米の研究所は,正式な国際交渉に先立つ形で,議定書や条約のあり方を模索するために 研究活動を行う. そこでは,識者や利害関係者を集めたワークショップが多用される.かかる活動に 日本も おおいに参加せねばならない. そこには企業,NGO,研究者など あらゆる人たちが参加して,討論を重ね, 共著で論文を書く といったことをしなければならない.頻繁に情報交換をするというだけでも, もちろん無いよりは良いのだが,やはり,共同作業をして ひとつの文章を作り込んでいくということが, 考え方を整理し,共有するには 非常に重要な作業になる.バックグラウンドの異なる人々が 一堂に会して, それぞれの国の状況,利害得失,特徴などを 相手に分からせることは 大変に難しい. そのために,じっくり腰を据えて そのような共同作業をする必要がある.

これまで日本においては そのような活動は あまり行われてこなかった. このような作業は MIT のサスカインドによって パラレル・ネゴシエーション(複線交渉)と呼ばれている. こういうとやや大袈裟だが,要は 複数のチャンネルで,政府のみならず,当事者になる民間の人々も含めて, どのような国際的な枠組みが望ましいかを,一緒になって考えていこう ということである.

日本で かかる活動があまり行われてこなかった理由は いくつかある. 先ず,その重要性が 認識されていなかった ということがある.

それから,国内の情報を出す ということに対して かなり抵抗があったという理由もある. よく日本文化の特徴として指摘されるのだが,日本では 身内のことを 外部にしゃべるということは,あまり歓迎されない. 特に,身内の あまり良くない点について,外部の人間に述べるということは 嫌われる. これには「惻隠の情」という言葉がある.

また悪いことを述べると,そこに付け込まれて,不利な約束をさせられる きっかけになるのではないか, という懸念もある.

ただ,これは杞憂だろう.海外の様子を見ていると,彼らは身内の悪いことも含めて, わりと あけすけに内部事情を説明する.狙いは,これによって相手に物事を理解させて, かつ,言っていることが本当である という信頼を得ていくことにある.

このプロセスが 日本発の情報発信において,とくに必要に思える.日本の内情を 詳しく述べる必要がある. これには,良い面はもちろんであるが,悪い面についても きちんと説明をすることが必要である. そうすることによって,どのような議定書であれば 結べるのか,それは 効果が見込めるのか,それとも 駄目なのか, といったことが 外部によく理解されるようになる.そうすれば,できあがってくる国際条約は, 京都議定書よりも マシなものになるだろう.

このように言うと,現実は そんな甘いものではない,相手は もっと悪意をもって交渉してくる,という意見もあろう. しかし,悪意があるならば,そのような議定書は 締結しなければよい. それに,そのような悪意を持った人ばかりではない.むしろ,国際的な舞台で働いている人々というのは, そこでの成功を目指すから,日本の参加を歓迎し,うまくやっていこうとするのが 普通である. そのような世界志向の人々に,日本の事情をよく理解してもらうこと,これもまた 重要なことである.

欧州の友人とボンの会議場で会ったときに,「日本のことを教えてくれ.日本は全くブラックボックスで, 事情がさっぱり分からない」と言われた.彼は 温暖化問題の専門家であり,アジアにも詳しい. 日本に関する情報が いかに不足しているか,改めて痛感をした.

京都議定書においては,欧州は 日本を知る努力は ほとんどしなかったし,必要もなかった. 日本は,議定書に「京都」という名前が冠された事実をもって 批准することになっており, それ以上は 欧州は 日本にサービスする必要がなかったからだ. ただし,このようなことは,もう二度とは 起きないだろう.次回は 日本も本当に実施可能な範囲で, 日本にとって何ができるか 徹底した議論をした上で 議定書を結ぶことになるだろう. 欧州発の枠組みを そのまま受け入れ,そのまま いうなりに批准する ということはなかろう. ならば,単に拒否するだけではなく,日本の考えを きちんと外部に示して, まともな国際的枠組み作りに参加することは,その責務でもある.



[日工フォーラム社 「月刊エネルギー」 2002 年 11 月号(ドラフト)より]



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