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Last updated: 2002.09.01  

気候変動枠組条約と現状に至る国際交渉を振り返る

今回は,マラケシュで一息ついた国際交渉に関して,いままでの流れの大枠を振り返って,その意味を考えてみましょう.

環境協定に関する国際交渉は,現象が確認され,それがコンセンサスを得られるにしたがって, Convention と呼ばれる枠組み的な条約が作成されるという流れがあります.この枠組条約は交渉のベースを提供し, そして,それはさらに厳しい数値目標の入った議定書 Protocol へとつながっていくことになります. 歴史的には,欧州における越境大気汚染(酸性雨)問題,成層圏オゾン層破壊問題の 2 つの国際環境問題が 先行する形で国際的な枠組みができていった過程があり,それを見習う形で,温暖化問題も発展してきたと言えるでしょう.

まず,ここで 1992年のリオでの地球サミットを契機に策定された「気候変動枠組条約」の役割を考えてみましょう. この条約は,1994年に発効してから,COP(締約国会議)の下,国際的枠組み作りのベースを提供してきました. COP 3(京都会議),COP 7(マラケシュ会議)などはすべてこの条約の締約国会議です. 現在ではすでに 185か国+ EC の批准を得たまさに世界最大の条約の一つといえるでしょう. 当時,強制力のある数値目標を入れることを主張したECに対し,時期尚早と反対した 米国旧ブッシュ政権の熾烈な交渉の結果,最終的には「目安」程度のものしか入りませんでした. おもしろいのは,逆にこの結果に満足した旧ブッシュ政権は,主要 Annex I 国の中では最初にこの条約に批准したのです.

さて,この条約は,議定書の影にかすんでみられることも多いのですが,よく中身を検討してみると, かなり重要な内容が入っています.

まず,基本概念として,「共通だが差異のある責任」,「予防原則」,「持続可能な発展との両立」, 「究極の目的(安全な水準での GHG 濃度安定化)」などの依ってたつべき共通理解を確立することに成功しました.

加えて,途上国を含めたすべての国に差異化されたコミットメントを設定し, かつ各国からの報告制度およびその審査プロセス(先進国対象)を導入しました. すなわち,自主的な行動を重視する一方で,そのパフォーマンスなどを通報という形をとることで, できるだけ担保しようとしています.この考えは,議定書にも受け継がれています.

そして,市場を活用した手法の概念を「共同実施」という形ですでに内包しています. これは議定書の第6条よりはるかに広い概念で,排出権取引,CDM,バブルなどの概念も含んでいます. ラインシュタインらの当時の米国交渉団に先見の明があったということでしょう.

この条約には,条約の究極の目的に照らして,条約に含まれるコミットメントが十分かどうかを チェックするプロセスも包含されています.この審査の結果が不十分だということになり,COP 1(ベルリン会議)で AGBM というプロセスがエストラーダ議長の下で始まり,COP 3 において京都議定書という形で結実したわけです.

ちなみに,第 2 回目の審査も予定されていたのですが,途上国の目標設定問題とも絡む話なので, マラケシュの段階でもまだ棚上げ状態です.ただ,このプロセスを種にして,近い将来, 途上国の参加問題が公式の場で議論される可能性はあります.

京都議定書の内容はここでは詳しくは触れませんが,当時米国クリントン政権がどういう考えで 議定書交渉に臨んだか?京都会議で「残された点」は何だったのか?という点を振り返ってみましょう.

よく見てみると,京都議定書の内容は,米国が企図した内容がほとんどそのまま活きています (その戦略性・先見性には感嘆を禁じ得ません).クリントン政権は,政権成立後, いわゆる議会との蜜月期間に財政立て直し策の一環として Btu 税(カロリーに比例した広く浅い税)導入を 図りましたが,議会の支持を得られず,白紙に戻さざるを得ませんでした.そのためもあり, 温暖化対策として強力な施策の導入がほとんど不可能となり,企業との自主協定をベースとしたものが 中心とならざるを得ませんでした(これは今に至ります).

したがって,クリントン政権は(ゴアを副大統領にいただき環境派の政権を主張していたにもかかわらず), 国内対策の目処がたたない中での議定書国際交渉に臨まなければならなくなったのです. そこで最後の伝家の宝刀として出してきたのが排出権取引でした.温暖化では国内対策はうまくいきませんでしたが, SO2 の世界では,排出権取引制度が有効かつ米国人の気質にあった手法として, 大成功をおさめていたからです.

CDM に関しても,途上国側から出てきたクリーン開発ファンド CDF 構想を逆手にとって, これを CDM という形にすることに成功しました.CDF は不遵守の罰金を用いて 途上国で排出削減プロジェクトを行うというものですが,よく考えれば,プロジェクトを行って 不遵守から逃れる CDM と親戚であることはおわかりになるでしょう?

しかし,米国クリントン政権の誤算がひとつだけありました.それは,先進国間交渉に時間がかかりすぎてしまい, 途上国への根回しが十分でなかったということです.その結果,最後の全体委員会 (CoW) において, 排出権取引条項への途上国の一斉反発を被ることとなりました.排出権取引が入らなければ交渉は すべて無に帰すことを熟知していたエストラーダ議長は,かなり強引に排出権取引を(別の条項として)残し, そのかわりに途上国の自主参加条項をあっさり削ったのです.

これはまさに英断でありましたが,徐々に途上国を取り込むことで国内反対勢力を懐柔していこうとした クリントン政権の誤算でもあり,その後のブッシュ政権の「いいわけ」のひとつともなっていることはご存じの通りです. 今後の「しこり」として残ることは確かでしょう.

ただ,10年あまりにわたる国際交渉を見ていると,ひとつの抗しがたい「おおきな流れ」を感じます. 通商交渉に近い性格をもつ問題であり,実際に交渉はそのように行われてきた側面もありますが, 温暖化問題解決に向けて国際的に着実に一歩ずつ踏み出していることも確かで,いかに大国の大統領とはいえ, それを覆すことはけっしてできません.

これからも,行きつ戻りつが見られる場合はあるかもしれませんが,このおおきな流れを見失わないようにして, その中でどう行動するかを考える必要があるでしょう.

[この文章は,ナットソースジャパンレター 2002年6月号に寄稿したものに,少し変更を加えたものです]



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